ギョグゼギボビビビ

頭の中で考えて行き先がないものを置いていくブログです

ほんとうに撮影すべき写真

最近スマホを変えてデータ移行をしていたのですが、前のスマホと新しいスマホでメインで使用する写真アプリが異なり、LINEで送られてきて保管していた画像を一部手作業で送るということをしました。

 

その時にどの写真が移行できていないかをチェックしていたのですがあることに気づきました。

それは、景色を撮った写真はほとんど見返さないということです。

近年旅行は自然の多いところに行く機会が多いので自然の風景を撮影することが多いです。

また、約1年半前に京都に行ったときも銀閣寺や清水寺の写真を大量に撮影しました。

しかし撮影してから見返したことはほとんどありません。

 

そこでこう思いました。

景色を撮影する必要はないのではないか?

 

私がよく見返す写真は過去の自分が写っている写真ともう一つあります。

自分の写真を見返すと言うとナルシストみたいですが痩せているとき、太っているとき、あるいは写真からそのシーンを思い出すときなどが結構面白いからです。

ただ、自分の写真より何倍もよく見返す写真達があります。

 

それは実家で飼っていた犬の写真です。

飼っていたと過去形になっているのでもうお分かりかと思いますが、3年ほど前に亡くなっています。

巷でよく言われるペットロスというものにしっかりなりました。

というか今でも思い出すと涙が溢れてきます。

これを書いている今もです。

 

13歳で亡くなった我が家の愛犬ですが私が一緒に住んだのは最初の4年だけ、その後は大学があった大阪や社会人になって住み始めた東京から帰省したときだけしか会っていませんでした。

そして帰省するたびに何枚も犬の写真を撮影し、それを待ち受けやLINEのアイコンに使っていました。

私のこだわりでその時撮影した最新の犬の画像をアイコンにするというものがありました。

 

ただ、最後の2年ほどはあまり撮影しなくなっていました。

それは可愛くなくなったからではなく、本当に家族のような感覚になったからです。

それまでも家族だと思っていましたが、家族の中のペット、一家の中の犬部門みたいな感覚でした。

しかし最後の2年は種の違いを超えて我が家の末っ子みたいな感じで見ていました。

実際体は衰えてきていたものの頭はどんどん良くなって明らかに人間の言葉を理解しているよなというシーンも増えていました。

そんな中で亡くなってしまいました。

あの時の悲しみはもう今後の人生で訪れることはないのではないかというほどのものでした。

初めてうちに来た時からよほどのことがなければ自分より先に死ぬんだということはわかっていたつもりでしたが、いざ本当に先に死んでしまうともう自分が生きる意味はないんじゃないかと思うほど辛いものでした。

 

これは私だけでなく他の家族全員が飼っていた犬に溺愛していたので今でも待ち受けやLINEのアイコンは愛犬の画像です。

 

私が自分のスマホの中に残っている写真で一番見返すのはそんな我が家の愛犬で、同じ画像をもう何度も見返しました。

自分のスマホのデータで最も大事なものです。

もうこの世にはいないけどそれでも画像を見ればかわいいなと思うし、まだ幼いときに甘噛されて怒鳴りつけてしまったことを謝りたいなと思うこともあります。

そんな時、250枚以上ある犬の画像がもう増えない現実に直面し辛くなることがあります。

自殺を考えたことはないですが死んだらまた会えるのかなと死後の世界を考えたこともあります。

 

愛犬が亡くなった直後、本当に生きる希望が無くなってそれはいわゆるペットロスで時間が解決してくれると聞きました。

確かに今は普通に過ごしている間に常に寂しいとか悲しいと思うことはありません。

しかし、たまに思い出すことがあると辛く寂しくなってしまいます。

それはペットロスなのかどうかわかりませんが、自分としてはそれで良いと思っています。

辛さが無くなることよりも辛くてもあれだけ好きだった愛犬のことを想えるという意味でプラスに捉えています。

 

今は昔に比べ高画質の写真を簡単にどこでも撮ることができるようになっています。

なにか珍しいことがあると見返すかどうか分からずスマホを向ける人もたくさんいます。私もそうなっていました。

最高の被写体はもうこの世にはいませんが、これからは後で見返すであろう本当に大事なものだけを撮ろうと思いました。